Monday, December 24, 2012

まことに「官軍」とは名ばかりの無頼の集団であった。

【ブエノスアイレスAFP=時事】 治安と景気の悪化が続くアルゼンチン各地で20、21日の両日、暴徒による略奪が相次いだ。政府は22日、警官数千人を全国各地に動員し、厳戒態勢を敷いた。(2012/12/24-05:49)

同じように・・・少し昔の・・日本では・・・「薩長が会津藩にした恐ろしいこと・・・?薩長は戊申の役で会津鶴ヶ城が開城した後、略奪暴行の限りをつくした!!」

会津歴史散歩~悲劇の会津戦争~(鈴木亨著)より。・・・「ようやく開城となって城下にもどった民衆には新たな苦難が待ちうけていた。それは新政府軍の暴行、略奪の嵐であった。当時の資料から数例を拾ってみよう。「政府軍兵士は商工農家を問わず家財の分捕りに狂奔した。愛宕町の質屋森田七郎右衛門の土蔵などは、薩州隊と肥後隊が分捕りを争い、薩州隊は自分の方が不利となると土蔵を爆破してしまった。のちに森田はその焼け跡の灰を掻き集め、いくらかの金塊を得たということだ。兵士らはこのように分捕った品物を集め、公然と「薩州分捕」「長州分捕」その他何藩分捕といった大標札を立てる有様だった。男女老幼を殺し、強姦などは公然のこととしていた。陣所には一般婦女子を捕えてきて妾とし、分捕った衣食酒肴に豪奢を極めていた。」(柴五三郎『辰の幻』)

「城下の人々が若松にもどってみると、大町から東の町々は西軍の営所となり、諸藩の隊は焼け残った家財や土蔵に「分捕」の標札を掲げていた。そこで人々は相当の代価を払って西軍から自分の家財を買いもどしたが、遅くもどった者はすでに無一物となり、何一つ買いもどすことができなかった。(柴五三郎『戊申見聞漫筆』)

人々が分捕りになった家財を自分のものだと哀訴しても、西軍は戦勝の威を藉りて返却せず、逆にその家人を使役して財貨を運ばせる始末だった。(池内儀八『会津史』)政府軍兵士のなかには、貴重な品物は駄馬に積んで故郷に送り届ける者もあった。会津藩士小川渉が天守閣から望遠鏡で滝沢峠を見ると、荷物を積んだ馬が続々と登って行くのが見えた。あとで聞いたところによると、白河には骨董商が出張してきていて、分捕品を買いあさっていたということだ(小川渉『志ぐれ草紙』)

開城一週間後の十月一日に政府軍は民政局を設置して占拠地の経営に当たった。太平洋戦争(筆者注:正しくは大東亜戦争)後に日本軍を軍政下に置いたGHQと同じ存在である。民政局は政府軍兵士の略奪暴行を禁ずる布告を出したが、もとより効果などあろうはずがない。こうした暴状に対して『会津史』の池内儀八は「嗚呼、孰れか之を弔民の王師と謂わんや」と痛憤している。まことに王師(官軍)とは名ばかりの無頼の集団であった。」・・・・

少し前・・日本では?こんな事が・・・だから?西日本の人は・・信用できないんだよね。福島県では?「維新」とか「未来」とかは・・信頼出来ないんですよね。・・・こんな事が・・あったという事を・・・

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